映画「ジョーカー」を理解する鍵、なぜJOKERは高笑いするのか?
映画「ジョーカー」で、なぜJOKERは高笑いするのか?
映画「ジョーカー」で、なぜJOKERは高笑いするのか? 理由はとても簡単だ。
JOKERが、世界と自分についての真実を理解したから!
ということになる。こう書くと、映画を見たほとんどの人から、いやいやJOKERが高笑いするのは、脳の先天的な異常による病気のせいで、突発的に笑いが出てしまうからでしょ!という意見が出てくるだろう。
いきなりネタバレで申し訳ないけれど、それはJOKERという人物についての初期設定であり、物語の終盤までJOKERがそう思い込んでいるのにすぎない。
JOKERは、世界と自分について、どんな真実を理解したのか?
それを解き明かしていくのが、今回の投稿の大きなテーマである。私が思うに、JOKERがなにを体験し、どんな真実を理解し、人間としてどう変化したのかを理解すると、映画の中の世界だけでなく、映画と観客、映画と社会など、さまざまなテーマについてより広く深く考えられるようになる。
それが映画「ジョーカー」の素晴らしいところであり、制作チームはそのテーマ性と時代性を明確に意図して、この映画を制作している。そして、その意図を反映するかのように、映画「ジョーカー」は世界中で大ヒットしている。
もしあなたが、最初に答えたJOKERが高笑いする理由に納得できないなら、ぜひ今回の投稿を最後まで読んでほしい。そして、私の考えを知った上で、もう一度、映画「ジョーカー」を見てほしい。
そうすれば、本当の意味で、JOKERがなぜ高笑いするのか、なぜJOKERが悪人になったのか、映画に登場するさまざまな悪人の中で、なぜJOKERが特別な存在なのか、ちゃんと映画の中で描かれていることに驚くだろう。
永遠に語り継がれるほど素晴らしい物語が描かれているのに、エピソードの表面だけを見て、映画「ジョーカー」を理解した気持ちになってしまうのは、あまりに勿体ない。
映画「ジョーカー」の主人公、JOKERはどんな人間なのか?
映画「ジョーカー」の主人公は、アーサーという名前の中年男性で、現代の都市に生きている孤独で孤立した人間を象徴しているような存在だ。
痴呆が入っていると思われる母親の介護をしながら古いアパートメントに暮らしていて、コメディアンとして成功したいという夢を抱えながら、ピエロ(道化師)として企業や病院などに派遣される仕事をしている。
主人公には精神的に問題を抱えていた過去があり、急に笑いが止まらなくなるという脳の先天的な異常による病気を抱えていたり、仕事で問題ばかり起こしたり、夢を実現させるだけの能力を持っていないなど、明らかに問題を抱えている。
公営のソーシャルワーカーが、主人公が問題を解決できるように相談に乗ってくれてはいるけれど、ソーシャルワーカーは仕事だから必要な話を聞いてくれるだけで、本当の意味で主人公を気にかけてくれるわけではない。
主人公にとって最大の問題は、自分のことを気にかけてくれたり、心配してくれたり、理解してくれたりする同僚も友達も恋人もいないことだ。誰も自分のことを知らないし、存在に気づいていないし、理解してくれない。
物語の序盤、主人公の心に渦巻いているのは、深い孤独であり、望んだように生きられない怒り(暴力性)であり、人間への不信感だ。
主人公にとってコメディアンとして成功することは、それらの問題を一挙に解決できるもので、だからこそ強くそうなりたいと望んでいる。主人公は仕事から帰ってくると、ロバート・デ・ニーロが演じる有名なコメディアンのTVショーを見ながら、自分もいつかゲストとして彼の番組に出演することを夢見ている。
映画「ジョーカー」で、JOKERが悪人となったのは、困難を乗り越えられなかったからなのか?
エピソードの表面しか理解できていないと、映画「ジョーカー」でJOKERが悪人になったのは、彼にさまざまな困難が降りかかってきて、それに心がポッキリ折れてしまって、怒りが爆発したからだと見えてしまうだろう。
あなたがそう思っていたのなら、それはまったくの間違いだ。
なぜ間違いなのか?
もし、JOKERが怒りで悪人になったのなら、JOKERは自分に困難をもたらした人たちを全員を殺してしまえば、怒りが静まって悪人でなくなってしまうだろう。現実世界でも、怨恨で起こる殺人事件は、その対象を殺害した時点で怨恨が解消されて、関係ない人たちを巻き込んで、どんどんエスカレートすることはない。
いやいや、JOKERが怒りを持ったのは特定の人物ではなく、自分が置かれている環境や社会そのものであって、不特定多数を攻撃する無差別殺人者に近いのでは? という意見をあるかもしれない。
もし、JOKERが環境や社会そのものに怒りを持ったのだとすると、悪人となったJOKERが攻撃するのは不特定多数の市民になるはずだけれど、映画「ジョーカー」ではそのような描写やエピソードは一切ない。
ちなみに、映画「ジョーカー」は2008年に公開された映画「ダークナイト」の正統な前日譚といえる物語になっている。なので、映画「ダークナイト」でJOKERは、フェリーに乗っていた不特定多数の市民を殺そうとしたではないか、という意見もあるかもしれない。
注意深く物語を追いかけると分かるけれど、映画「ジョーカー」でも「ダークナイト」でも、JOKERは攻撃する対象が明確であり、フェリーに乗っていた市民たちを殺そうとしたのは、バットマンに人間の醜さを見せつけるためだった。
つまり、JOKERは支離滅裂な状態に陥っているわけでもなければ、怒りを制御できずに暴走しているわけでもなければ、狂気の世界に入り込んでいるわけでもない。
映画「ジョーカー」がおもしろいのは、主人公が問題を抱えた市民として生きている間は、強い怒りを抱いていたのが、JOKERとして悪人として覚醒すると、強い怒りを抱かなくなるところである。
映画「ジョーカー」を象徴している、2つのエピソード?
映画「ジョーカー」には、この物語とテーマを象徴するようなエピソードがある。
主人公が警察官から逃げていて、地下鉄に乗り込む。地下鉄車内には、物語の舞台であるゴッサムシティーのひどい現実に抗議しようとしている人たちが乗っていて、ほとんどの人がピエロの仮面をかぶっている。
主人公は、その人たちのピエロの仮面を奪ってかぶることで、警察官から逃げることに成功する。主人公は地下鉄を降りたところで、かぶっていたピエロの仮面を脱いで、その仮面をゴミ箱に捨てる。
本来であれば、なにげない場面であるはずなのだが、映画「ジョーカー」ではそのゴミ箱を画面の中央に大きく映して、主人公が脱ぎ捨てたピエロの仮面を数秒間じっくり見せることで、主人公の行動に象徴的な意味があるという映像的な演出をしている。
そして、物語の終盤、悪人として覚醒したJOKERを支持する人たちが、彼の周りに集まってくる場面がある。そこで、JOKERを支持する人たちは、全員がピエロの仮面をかぶっていて、仮面をかぶっていないのは主人公のJOKERだけである。
この2つのエピソードから分かるのは、JOKERは仮面を脱ぐことで悪人として覚醒したのであり、JOKERを支持している周囲の人たちは、仮面をかぶることで悪人になっているということである。
これが理解できると、映画「ジョーカー」の大きな構造が理解できるようになる!
それはつまり、JOKERとして悪人として覚醒するまで、主人公は仮面をかぶったまま人生を生きているということである。
母親を懸命に介護する主人公、ピエロとして人を笑顔にしたい主人公、コメディアンとして成功してスポットライトを浴びたい主人公、母親の秘密を知って家族の窮状を助けたい主人公、すべてが主人公がかぶっている仮面の姿である。
さらに重要なのが、物語の終盤になるまで、主人公自身が仮面をかぶって生きてきたことに気づいていないことだ。
家族を大切にして、人々を笑顔にしたいと願っている善良なる一般市民、主人公はそれが仮面だと気づかず、自分が心から望んでいることだと信じて生きている。心から望んでいないことを実現しようとして懸命になっているのだから、主人公の人生が困難になるのも当然なのかもしれない。
映画「ジョーカー」で、JOKERが悪人となった本当の理由?
物語の序盤、主人公は突然に笑いだして止まらなくなるのは、脳の先天的な異常による病気によるものだとして描かれる。観客も主人公もそういう病気なのだと信じたまま、物語は進んでいくのだけれど、物語の終盤のある場面で、主人公はそれが病気のせいではなく、本当におかしくて笑っているだけなのだと気づく。
病気が原因でないのだとしたら、物語の序盤から、主人公はなにをおかしく感じて、笑いが止まらなくなるのだろう?
主人公が笑い出してしまうのは、人間の奥底にある利己的な部分が明らかになって、人間なんてクソったれな存在だと実感した瞬間だ。
子供に笑顔を提供しているのに怒りだす母親、何度も同じ質問ばかりして自分を理解しようともしないソーシャルワーカー、社会的に成功しているのに女性を貶めようとするサラリーマン、自分が起こした家族の問題を人のせいにする母親、TVショーの話題作りのために主人公の夢を食い物にする有名コメディアン、自分にピストルを提供しておいて自分を慰めようとする元同僚、そして殺人を犯したことで自分が強くなったと錯覚して、恋人ができたという妄想を信じていた自分自身。
主人公が善良なる一般市民という仮面をかぶっている間、主人公の頭の中は、善良なる自分 vs 利己的な人間という対立構造になっている。
このまま物語が進んでいき、主人公が悪人として覚醒したのであれば、困難に耐えられず怒りが爆発したという解釈も可能なのだけれど、映画「ジョーカー」では、物語がそんな対立構造を軽々と突破する。
JOKERが理解した、世界と自分についての真実!
物語の終盤、主人公は自分には恋人がいると思っていたけれど、実はそれが自分の勝手な妄想だったことに気づく。それまで、自分は善良なる人間で、周囲の人たちが利己的でクソったれな人間なのだという対立構造を信じていた主人公は、自分も彼らと同じように利己的でクソったれな人間であることに気づく。
対立構造が崩壊したことで、主人公は世界と自分について、新たな視点を手に入れる。
主人公が理解した真実とは、つまり、すべての人間が利己的でクソったれな存在であり、自分もそんなヤツらと同じクソったれな人間であるという真実だ。
JOKERは、高笑いせずにはいられなくなる!
自分だけは善良なる人間であると信じていた今までの自分に対して、自分は善良なる市民だと思いながら、ひたすら利己的に生きようとする、すべて人間たちに対して。
そして、主人公は仮面を脱ぎ捨て、JOKERになる!
主人公は、すべての人間が利己的に生きようとしているのであれば、なぜ自分だけが善良なる市民の仮面をかぶって、利己的な人たちに人生を踏みにじられなければならないのかと考える。みんなが利己的に生きているなら、自分も同じように生きて良いはずだ。
主人公は仮面を脱ぎ捨てて、JOKERとして悪人として覚醒する。
JOKERとなった主人公は、クソったれ度合いの高い人間を殺すたびに爽快感を感じ、事件を起こすたびに多くの人に注目されることに陶酔感を感じ、自分は他人を思いやれる人間だと信じている利己的な人間を激しく嫌悪する、本当の自分に目覚める。
物語の終盤、JOKERは、悪人として世間に大きくアピールすることに成功する。
そして、善良なる一般市民の仮面をかぶっていた時は、誰も助けてくれなかった主人公を、彼の犯罪に共感して、仮面をかぶることで悪人となった協力者たちが助けてくれるという出来事が起こる。
これは、映画「ジョーカー」の全体像を象徴するような出来事であるのと同時に、物語として非常にすばらしく、なんとも皮肉に満ちた展開である。
映画に登場するさまざまな悪人の中で、なぜJOKERは特別な存在なのか?
JOKERが、悪人として特別な存在となっているのには、2つの理由がある。
JOKERが悪人として特別な理由 その1
映画に登場するほとんどの悪人には、分かりやすい目的がある。
世界を征服したいとか、大金を儲けたいとか、誰かに何かに復讐したいとか、自分の性的快楽を追求したいとか、目的のために悪人となっている。つまり、自分の利益を最大限に追求するためには、悪いことをするのがもっとも効果的だと考えている。
ところが、JOKERには自分の利益を最大限に追求したいという行動原理がない。
JOKERは、世界を征服したいわけでも、大金を稼ぎたいわけでも、誰かに復讐したいわけでも、性的快楽を追求したいわけでもない。JOKERの行動原理は、本当はひどく利己的なのに、善良なる市民という仮面をかぶっている人間を見つけた時に、そんな人間を残酷に破壊したくなるというものだ。
JOKERの悪事は、狙いを定めて計画的に進めることもあれば、突発的に起こすこともある。というのも、行動原理がJOKERの目に入る人間によって大きく変わるので、次にどんな行動を起こすのかが非常に予測しづらい。
なので、ゴッサムシティーの守護神として活躍しているバットマンも、JOKERには常に翻弄されることとなる。また、JOKERの目には、すべての人間が利己的な存在に見えているので、JOKERの悪は、JOKERが存在するかぎり永遠に終わることがない。
目的のために悪を成すのではなく、人間そのものが悪であり、自分はそれを分かりやすい形で具現化して、世間に提示しているのに過ぎないと考えているところが、JOKERのスゴいところで、悪人として特別な存在となっている1つ目の理由である。
JOKERが悪人として特別な理由 その2
映画に登場するほとんどの悪人は、自分を過剰に守ろうとする。
考えてみれば当然のことで、ほとんどの悪人は自分の利益を最大限に追求するために悪いことをしているわけで、世界を征服した直後に自分が死んでしまっては、悪いことをした意味がない。
なので、ほとんどの悪人は自分を守るために格闘技のエキスパートであったり、悪の組織を整えたり、強力な兵器を作ったり、超常的な能力を手に入れたりすることで、絶対的な安全を確保しようとする。
ところが、JOKERには自分を守ろうという観念がない。
不必要となればすぐに殺すことができる協力者がいるだけで、格闘技のエキスパートでもなければ、強力な兵器も作らなければ、超常的な能力を手に入れようとすることもない。映画の世界ではあまりに貧弱な生身の身体だけで、バットマンにぶん殴られながら高笑いしている。
よくよく考えてみると、JOKERの場合、悪をなせばなすほどバットマンに痛めつけられたり、警察に捕まって刑務所に入れられたり、自分に悪いことが返ってきている。そんな貧弱な存在であるにもかかわらず、悪を止めることなく、高笑いしながら人間社会に敵対するなんて、まともな悪人にはできないことである。
ズル賢い計画を立てられる高い知性を持っていながら、自分を守ることには無関心で、清いぐらい一人の生身の人間として悪をなそうとするのが、JOKERのスゴいところで、悪人として特別な存在となっている2つ目の理由である。
最後に、私が考える映画「ジョーカー」についての善と悪?
この投稿を書き終わるまで、世界中の人たちが映画「ジョーカー」について、どんな意見や感想を言っているのか読まないようにしていたので、私は世間的にどのような評価がされているのか知らない。
私の推測だと、主人公の困難な人生には共感する部分もあるけれど、悪人になってしまったのは許せないとか、社会的に成功できず人生が困難になってしまった人間の心に芽生える悪がリアルに描かれていて素晴らしいとか、主人公を演じたホアキン・フェニックスの演技がスゴいとか、そういう意見が大部分ではないかと思う。
私が映画「ジョーカー」を見終わって、最初に感じたのは、2008年に公開された映画「ダークナイト」で絶賛されたJOKERというキャラクターの成り立ちを、一人の人間の人生としてここまで奥深く描くことができるなんて、なんて素晴らしい映画なんだというものだった。
ここまでこの投稿を読んでくれた人であれば、映画「ジョーカー」が、さまざまな困難に耐えられなくなった主人公が悪人となった、という単純な物語ではないということを理解してもらえたのではないかと思う。
JOKERが嫌悪して破壊したいと願っているのは、すべての人間が持っている利己的なところであり、誰もが知らず知らずのうちにかぶっている仮面である。JOKERはそこから生まれる悲劇を身をもって経験したからこそ、それに敏感に反応し、攻撃をしかける。
もし、善と悪で映画「ジョーカー」を判断すると、次のようになる。
JOKERが悪であるなら、すべての人間が悪である。
少なくとも、JOKERの目には世界がそう見えているし、JOKERにとって人間社会の善悪は、どちらがより悪いことをしたのか、どちらがより悪い人間なのか、どちらがより良い仮面をかぶっているのかという、深度や程度の問題に過ぎない。
悪が悪を裁いたり、クソったれがクソったれをぶん殴ったり、仮面をかぶっている人間同士が仮面に親しみを感じたり、JOKERにとってゴッサムシティーに生きている人間たちは、永遠に笑っていられるほど腐った連中なのである。
どんな映画でも、世界中で大ヒットする映画というのは、その時代を生きている人の感情や感覚に訴えかける時代性を持っている。
だから、映画「ジョーカー」が世界中で大ヒットしているのは、決して偶然ではない。
JOKERという特別な悪人の中に、現代を生きている人たちの感情や感覚に訴えかける時代性が、確実に存在するからなのである。
映画「ジョーカー」の予告編と基本情報?
もし、あなたがここまで読んでくれたのなら、素直に感謝したい。
そして、ぜひ私の意見を頭に入れた上で、もう一度、映画「ジョーカー」を見て、自分なりに答え合わせをしてみてほしい。JOKERの言動の中から、間違いなく新たな発見があり、映画「ジョーカー」がいかに優れた映画なのか、実感できるようになるだろう。
映画『ジョーカー』本予告【HD】2019年10月4日(金)公開 - YouTube
映画「ジョーカー」の基本情報
英語タイトル : JOKER
日本語タイトル : ジョーカー
JOKER役 : ホアキン・フェニックス
有名コメディアン役 : ロバート・デ・ニーロ
監督 : トッド・フィリップス
共同脚本 : トッド・フィリップス
共同脚本 : スコット・シルバー
映画「ジョーカー」の主な受賞
第76回ベネチア国際映画祭 金獅子賞(作品賞)受賞
このブログを運営して、初となるデザインと仕組みの変更を行った。よりシンプルに、より使いやすくを目指して、新たにサイドバーを加えたり、メインカラーなども変えてみた。ブログの更新については、地道にマイペースに進めていくので、今後ともよろぴく。